よくわかる小田原の歴史
小田原の歴史について
神奈川県の西のほう、箱根と熱海のちょっと手前、駅の隣には城がある、正直それくらいしか小田原のことを知らない方も多いのではないでしょうか。戦国時代の話くらいは知ってても他はイマイチ。そんなあなたにちょっとかいつまんでお手軽に小田原の歴史をご紹介!
○名前
小田原市は元々、相模国足下郡(さがみのくにあしがらのしものこおり)という地域に属しており、古地名を「こゆるぎ」と呼ばれていたそう。そしてそこに「小由留木」という漢字があてられたとか。それを誤読して「小田原」になったなんて説があります。草書体って読みづらいですよね。
○昔々
紀元前から人が住んでいた痕跡があり、関東の弥生時代の遺跡としては一番古いものの一つ、中里遺跡もあります。縄文人と渡来人が共生した、考古学的にも面白い場所なんですって。
○平安〜鎌倉時代
平将門を討った坂東武者として有名な藤原秀郷(俵藤太)の子孫・佐伯経範が秦野近辺に移り住み波多野氏を名乗り、そこから支流を増やしていきました。そのまま南西部の方に勢力を伸ばし、その時の武将の名前が地名としていまだに残っており、秦野(波多野)や渋沢、栢山なんかはそこから来ています。ちなみに小田原城の基となった居館は平安時代末期くらいに建てられたらしいですが、現代で知られる城っぽい形ではなかったみたいです。ちょっと大きい家みたいな。そこから獲って獲られてしながら大きくなっていったみたいです。
○室町〜戦国時代
伊勢平氏をルーツと称する北条氏(鎌倉時代の執権家・北条氏とは別)が小田原城に入城し、北条氏の祖・北条早雲(伊勢宗瑞)が大幅に城下町を拡張しました。以後北条氏が5代100年に渡って関東での勢力を拡大していき、関東支配の中心拠点として整備拡張されていきました。驚くべきは全長9kmに及ぶ総構(城壁とか堀とか土塁とか)の巨大さ。豊臣時代の大坂城すらしのぐ大きさでした。いかに当時の北条氏の関東における勢力が大きかったか推察できます。
そしてこの時代に小田原用水が造成されました。小田原は海のそばにあるため地下水を汲み上げても塩分が多く飲用には適していませんでした。城下町の発展と共に増加する人口を支えるための生活用水として、芦ノ湖を水源とする早川の水を小田原市板橋の取水口からから取り入れ、旧東海道に沿って水路を造り城下町内部へ流すという大規模な工事を進めました。この小田原用水は日本最古の上水道といわれています。江戸の玉川上水や神田上水はこれを参考に造られたと考えられています。現在はほとんどが暗渠になっていますが、もちろん今も小田原市民の水源として活用されています。
○安土桃山〜江戸時代
豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏による支配は終わりました。その後の北条氏は豊臣家に仕え、江戸時代になると徳川家に仕え、北条氏盛が外様大名として現在の大阪府南部にあった狭山藩の初代藩主となりました。
その後は小田原藩が置かれ、小田原城には徳川家康の腹心である大久保忠世が入城し、小田原藩を治めました。天下泰平の時代になると小田原城も縮小され、箱根の山越えを控えた宿場町として東海道五十三次中最大の規模を誇りました。
○明治〜現代
明治に入るとすぐに小田原城の城内の建築物はほぼ取り壊されました。そして廃藩置県により小田原藩は小田原県となり、再編による足柄県を経て神奈川県に編入されることとなります。明治の中頃に熱海線(現在のJR東海道本線)、小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)ができました。
大正時代には関東大震災、第二次世界大戦では空襲も受けるなどの苦難の時期を超えて、昭和中期には小田原城の再建、新幹線の開通などもあり観光客も増加しました。そして現在も都心へのアクセスの良さ、往年の城下町の風情を感じられる街並みやマリンレジャーなど、魅力溢れる街として続いています。
すみません、冒頭にかいつまんでと書いたわりにはやや長くなってしまいました(笑)。そんなついつい文章も長くなってしまうほどの歴史ある町・小田原へ是非遊びに行ってみてはいかがでしょうか。